<雑記>除夜の鐘まで…不寛容さと個人主義と集団主義

雑記

こんにちは、博文です。
もう師走。
忘年会、クリスマス、大晦日と行事がいっぱいですね。
大晦日と言えば「除夜の鐘」ですが、どうやら中止の動きもあるようで…
今回はそのへんについて博文が感じたことを綴っていきます。

デイリー新潮の記事

話題となったのがこちらの記事。
一言で言うなら、騒音という理由で不寛容な世の中になったということです。除夜の鐘ぐらいいいんじゃない…と思ってしまうのですが…

何でも禁止になってしまう世の中

何でも禁止の問題になってしまってる世の中ですよね。例えば、保育園幼稚園を建てようとしても「うるさい」と反対され、運動会を行っても「うるさい」、二宮金次郎の像は「歩きながら本を読むのはいけない」から撤去、はだしのゲンは「子どもに見せる内容ではない」と閲覧制限。
色々めんどくさい世の中になってしまっていると感じています。苦情を入れたもの勝ちみたいになってしまってますよね。一体どうしてなんでしょうか?

 

「個人」が際立ってきている

昔は、地域集団の中の一員という認識があったから、そういった保育園・運動会・除夜の鐘問題はなかったのかもしれません。ただ現在は、集団の一員という認識よりも一個人としての認識が強くなってきているのではないでしょうか。集団主義から個人主義へと移ろいです。

「個人主義」の例

Twitterで話題になっている #忘年会スルー も個人主義の表れではないでしょうか?
集団やしきたりよりも自分の時間を大切にしたい。そういった思ったことを言える世の中になってきているのはとてもいいことだと思います。

集団主義にも個人主義にも不寛容さはある

ただ、集団を大切にしても個人を大切にしても不寛容さは発生してしまうのです。集団主義の場合、個人に我慢を強いります。「みんなが飲み会参加するんだから、参加して」とかです。逆に個人主義の場合、集団に我慢を強いります。「騒音が困るから、近くに保育園は建てないで」などです。飲み会の場合、集団主義にモヤモヤしてしまいますし、保育園問題の場合は個人主義の人にモヤモヤしませんか?集団主義であれ個人主義であれ、そういった問題が出てきてしまうのは仕方ないと思います。

 

歩み寄るしか道はない?

白黒つけようとしてたってどうしようもありません。正面衝突になってしまったら、デイリー新潮で紹介されていたようなことになってしまいます(除夜の鐘がうるさいと訴えられ、お寺に防音パネルの設置を命じられた)。ちょっと理不尽な気もしてしまうのですが、仕方ないのだと思います。ただの理想論になってしまうのですが、相手を理解しようとする思いやりを持って歩み寄ってほしいのです。
どうしても自分の考えが正しいと思ってしまうから、相手の意見を受け入れる心の余裕がないから、こういった不寛容さが蔓延してしまってるのかなと思います。「ちょっとこれおかしくない?」と思って相手に伝えるとして、すぐ「〇〇だから中止して!」と極論に至るのではなくて、「どうにかできませんか?」と優しくあったほうがいいと思いますし、逆に「〇〇できませんか?」と言われたら、「〇〇なんて無理!!」とすぐ断るのではなく「考えてみます」と歩み寄れる世界であってほしいです。ただ現実は難しいのです。

 

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